医師は都会に住んではいけないのか~医師たちの「都会VS地方」「組織VS個人」問題~

先日、バズっていたこの記事。

newswitch.jp

 

定住者の生活水準を向上させるために存在する自治体であれば、定住者がいなくなれば自治体もなくなるのが普通である。それを自治体という組織を守るために定住者を確保しようとするから違和感が生まれる。

 

体制を維持するために個人が犠牲になる社会は健全ではない。

 

国家や自治体・地域を維持するために個人のキャリアを犠牲にしてはいけない。

 

など、人のために自治体などの組織があるのであって、自治体などの組織維持のために人が居るわけではないと、繰り返し批判されています。

 

江草も全く同感で、ついツイートもしてしまいました。 

 

医師が都会に集まり、地方に住みたがらない傾向は、「医師の偏在」として問題視され、様々な対策が取られてきました。

  • 医学部卒業後しばらくその地方での勤務を義務付ける「地方枠」を作成したり。
  • 各研修医の臨床研修病院を決める「マッチング」と呼ばれる制度で、定員を都会を減らして、地方を増やしてみたり。
  • 専門医を取るための下積み期間である「専攻医」採用数。都会では上限「シーリング」が設けられたり。

などなど、お上としては医師を都会から引きはがし、地方で働かせようと必死です。

 

確かに、地方の医療を維持するため、と言えば一見、聞こえは良いでしょう。

しかし、これはまさに医師個人の自由を犠牲に、組織や体制を維持しようとする考え方で、記事で批判されているままの構図です。

記事の筆者の田鹿さんも暗に示唆されていますが、組織や体制を守るために、個人の自由が犠牲になるのは、戦時下の全体主義と類型であることに私たちは努めて自覚的でないといけないと思います。

人それぞれかもしれませんが、江草としてはこのような全体主義的な構図には心理的な抵抗感が強い方です。

 

ただ、江草にとっては残念なことに、このような全体主義的な考え方はごくごく自然に、そして根強く、医療界に浸透しています。

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例えば、これは少し前に出ていた「無給医問題」の記事です。

 

「無給医問題」の背景を丁寧に炙り出した良いインタビュー記事なのですが、江草が気になったのは嘉山先生の仰られた次のコメントです。

 

 無給医がいる大学の多くは都会の大学です。こうした大学は、支払うことができる人数だけを採用し、それ以外は、医師が不足している地域に回るようにすべきです。

 

インタビュー全体を通して、「無給医問題」を重要視し、若手医師に対して共感的な態度を示してこられた嘉山先生でしたが、だからこそ、江草はこのコメントには失望を禁じえませんでした。

 

確かに「無給医問題」は問題です。しかし、「無給医」が多い都会の大学から、給与の支払い能力の余裕がある地方の大学に「無給医たち」を移動させれば問題は解決する、という考えは誤っています。 

まず押さえないといけないのは「無給医たち」は「無給」にも関わらず、都会で働くことを選択しているという事実です。つまり、「無給」の仕打ちにも我慢したくなるぐらい、「無給医たち」には都会に居たい強い理由があるということです。

そういう「無給医たち」を地方に移動させたら、「無給医問題」は解決するかもしれませんが、「都会VS地方問題」が代わりに出現するだけでしょう。問題の種類が変わっただけで、下手をすると、本人たちの悩みはさらに深刻化する可能性さえあります。

これはただの「問題のすり替え」で、本質的な解決にはならないのです。

本当に「無給医たち」を救いたいなら、こういう解決策には至らないはずなんです。

だから、嘉山先生のこのコメントは、残念ながら、ご自身の所属されている大学や自治体などの「組織の維持」を意識した発言にしか感じられないのです。 

誤解のないようにもう一度強調しておきますと、インタビュー記事全般に嘉山先生の態度は良識的だったと思います。

しかし、そのような良識的な嘉山先生でさえ、さらりと「組織の論理」を提示してしまう。このことこそが、医療界において全体主義的な考え方がいかに強く根付いているか表す一例だと思うのです。

 

 

一般的に若者が都会に住みたいのなら、そこには「理由」があるはずです。

同様に、医師が都会に住みたいなら、そこにも「理由」があるはずなんです。

 

地方の維持のために、組織の維持のために、

こうした「理由」を、

「個人の自由」を、

どう扱うつもりなのか。

 

大きな問いが私たちに突き付けられています。